#28 国境完全封鎖49分前にペルーから脱出できた話

 

3月15日。

マチュピチュとクスコの観光を終えて、

クスコからSky Airlineでリマへと向かった。

クスコは標高3000m以上。リマは海岸近くの都市なので空気が一気に濃くなったのが空港に降り立った瞬間わかった。

リマは目立った観光地は特にないのでミラフローレス地区を歩きながらペルー料理でも食べるつもりだった。

リマの空港に着いたのが昼過ぎ。外で一服しながらゲストハウスまでタクシーか公共交通機関もどちらで行くか考えていた時には、空港全体のザワザワした感じは特に気にならなかった。

結局タクシで向かうことにして、タクシーに行き先を告げて、乗り込むや否やタクシーの運転手がスペイン語でまくし立ててきた。

タクシーでは以前トラブルがあったので(過去のブログ参照してみてください)

警戒しながら見てたけど、どうも彼から必死さが伝わってきた。

スペイン語は全く話せないので

「ノン エスパニョール」

と申し訳なさそうに言うと

彼はオーケー、リッスンと言い、こちらに向き直して僕にこう伝えた・

 

「トゥモロー ノー エアプレーン」

 

???

 

「リマ ガバメント コロナ ノーエアプレーン クローズ エアポート トゥモロー」

 

ぶつ切りの英語だったけど、必死だった理由がわかってきた。

ペルーでも徐々にコロナウイルスは拡大しつつあった。

ペルー政府はコロナウイルス拡大を阻止すべく国境封鎖を決定したのだ。

 

基本的に無神論者だし、ふざけていたわけでもなかったけど

「Oh my god...」自然と口を突いて出てきた。

 

今日と明日リマ観光するつもりだったけど、もちろんそんな場合じゃなく、

絶句していたら、リマから出る日はいつか、航空会社は何か?と聞いてきた。

明日深夜のアメリカンエアライン、と答えると、

空港近くにある旅行代理店の建物を指差し、

「チェンジ トゥデイ」と言ってきた。

なるほど、明日の便を今日に振り替えられないか聞いてみろ、と言うことか。

オーケー、プリーズと言うと、

グッと親指を立て、連れて行ってくれた。

彼はスペイン語ができない僕のために、代理店の人に事情を説明してくれた。

 

30分は待ったと思う、彼女は浮かない顔をしてパソコンの画面を見せてきた。

「No empty seat」

まあそうだろうなと言う感じで、ため息をつくと、

なにやら電話をし始めた。それをぼーっと見守っていると、

彼女はgracias graciasと言って電話を切り、こう告げた。

 

「Your airplane will fly」

呆気にとられた僕を取り残して、タクシーの運転手に早口のスペイン語で事情説明する。

運転手の彼はにっこり笑い、僕に

「オーケーブラザー レッツゴー」と言い、僕のバックパックを担ぐ。

明日空港閉鎖されるんじゃなかったのか、

なにが起こったのか、なにをしていたのか、なぜ一時間も待たされていたのか、何がブラザーだ兄弟の契りを交わした思い出なぞ無い

なに一つわからないままタクシーに戻った。

彼がルームミラー越しに説明してくれるには、

アジア、ヨーロッパ発着便は今日まで、それ以外の飛行機は明日までとぶらしい。厳密には3月16日の23時59分まで。そして僕が予約していたダラス行きの飛行機は16日23時44分発。あと少し遅ければアウト。完全に帰れないと思っていたので、完全に奇跡だと思った。

 

ラッキーマン」と彼は笑いかけてきた。

「イエス アイム ラッキーマン」と言い笑い合った。中田敦彦の新曲か

 

続けざまに彼は明日市内は大混乱し、渋滞になるから空港近くに泊まった方がいい、と言われ、それもそうだ、と思い、彼が案内するホテルに泊まることにした。

ここでも彼がスペイン語でホテルの人に事情説明してくれた。最初はアジア人と言うこともあってか渋られたけど、ヨーロッパや中国に行ってないことがわかると、泊めてくれた。

一泊3000円。1000円代のゲストハウスに泊まっていた自分からすると正直少し高かったけど、何より蓄積疲労と旅の疲れ、そしていち早く情報収集したかったので、即決した。

運転手は部屋まで荷物を運んでくれた。時間的にも拘束してしまったため、かなり多めにお金を渡して別れた。

 

部屋はいたって普通。でもシャワーでお湯が出るのが有難かった。ここ数日冷水しか出ないシャワーだったので、ろくに体を洗えていなかった。シャワーでスッキリし、外務省のホームページを開くと、確かにアジアヨーロッパ発着便は今日までになっていた。

ここまで正直壮大な詐欺の可能性を、まだ1%くらい疑っていたけど、これで「ペルーは国境封鎖する」と言う事実がハッキリした。

しかしまだ安心したわけではなかった。アメリカ行きがまだ確定したわけではなかったからだ。外務省のページにはアジアヨーロッパ行きの飛行機のことしか記載されていなかったし、続々と航空会社がリマ発のフライトのキャンセル決めていた。

状況的には数学で言うと、必要条件であって、十分条件ではない。

やることもないので、主にツイッターでひたすら情報収集した。

 

 

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同じようにペルーへ行っていた学生や、日本語ができるペルー人と知り合うことができ、

コンタクトを取った。特にチェビレさんと言うペルーの方は、非常に親身になって色々教えてくれた。政府の会見を日本語で教えてくれたり、弁護士のツイートを翻訳してくれた。

スペイン語ができない自分は状況的に完全に詰み、だったけど

彼が親切に色々教えてくれて、本当に助かった。

 

 

その日はホテルの近くでファーストフードを食べ、ユーチューブで気を紛らわしながら寝た。

明日以降はホテルに泊まれないので、充電器は完璧にした。

(この時スカイスキャナーで確認したら、この日のクスコ-リマ間でさえ5万円越えだった。平時は 10分の1以下でいける。リマから国外も、何十万もするか、表示さえされなかった)

 

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一晩中パトカーの音が聞こえ、騒がしく、街全体が異様な空気だった

 

 

 次の日。16日。

もちろんおちおち観光してる暇もなく、朝起きて身支度し、11時には空港に着いた。

空港には尋常じゃないくらい人でごった返していた。空港には警察や軍が何人もいて、かなり物々しい雰囲気だった。

 

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 とりあえず密集地帯は避け、11時間ほど(!)時間を潰すことにした。

アメリカン航空キャンセル即ペルー二週間滞在が決まった時には、当分の生活費が潜在的に必要だったので、貴重品やお金は盗まれると本当に困るのでおちおち居眠りすることも許されない。

幸い川端康成『雪国』を持ってきてたし、オフラインの大富豪アプリもあったので、

”食料”を獲得してからは、ひたすら地べたで待った。

今回の旅の至る所で耳にしたTones and Iの『Dance Monkey』をダウンロードし、ひたすら聴いていた。

 

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インカコーラめちゃくちゃ美味しかった

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ひたすら人の往来を眺めながら読書した

 



SIMも残りわずかで、あまり通信したくなかったけど、アメリカン航空の予約ページは何度も確認した。30分ほど定刻よりもフライトが早まっていた。アメリカン航空のなんとしてでも飛ぼうと言う意思が感じられて、希望を持った。30分早めたのはおそらく定刻44分だと、搭乗時間や乗客の搭乗が遅れたり、ちょっとしたトラブルで数分出発が遅れた場合、59分を過ぎてしまうリスクがあり、そうなった場合、多くのアメリカ人乗客(と一部の非アメリカ人。まあ非アメリカ人達が取り残されることにはなんとも思わないだろうけど)

がペルーに取り残されてしまう。それをなんとしででも避けたかったのだろう。

 

とにかくひたすら待った。長かった。お腹が空くと、少しキットカットを齧った。

途中日本人の男性が話しかけてくれた。物々しい空気感、先読みできない状況の中、一日中緊張感と不安でいっぱいだったので、日本語での会話はいくらかリラックスできた。

その人は仕事でペルーに来てたらしく、当初はもう少し滞在予定だったけど、事態急変し

とりあえず空港に来たものの、チケットは持ってなかった。

 

まだチェックインまで時間に余裕があったので、彼のキャンセル待ちに同行することにした。

 

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はっきり言って絶望的だった。この状態から時速10センチほどしか進めない。

2時間ほど一緒に並んだけど、一言二言会話を交わしただけで、ほとんど無言だった。とりあえず自分のフライトのチェックインを優先するために彼とはここで別れた。

 

 

チェックイン自体は難なく済んだ。僕は当初ダラス経由でメキシコ入りし、そこから次の目的地キューバへ向うつもりだったので、このフライトは最終目的地がメキシコだった。ダラスで降りたい、と言ったが、向うもこの混雑で疲弊してたのか、ブチギレられ、結局願いは聞き入れられなかった。

まあ何はともあれ、チェックインやセキュリティチェック自体は難なく進み、搭乗ゲートに向かった。

一応確認したけど、明日以降、つまり1時間後以降のフライトは全てキャンセルになっていて、非常事態を物語っていた。

 

 

 

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無事脱出完了できた者達

 

無事席に座り、機体が浮上した時にはドッと安堵感が押し寄せた。この便が、ペルーを出国した最後の便だった事は言うまでもない。

もし飛ばなかったら、ペルーに二週間足止めすなわち、四月一日の入社に間に合わない。

二週間どころか、暫定的な措置のため、もっと伸びる可能性もあった。

内定先に送る謝罪文と、その処置(処罰的措置?)を本気で考え、最悪内定取り消しも半ば覚悟していたので、本当にホッとした。

と同時に、空港で会った彼のように出国できなかった人達も大勢いるため、

手放しでは喜べなかった。

後にわかったことだけど、ペルーには200人以上の邦人が足止めされていた。

日本政府がチャーター便を出す話にも、「自己責任」だからそんなことしなくていい、と政府や取り残された人達を批判する声が少なくない。

なんとなく日本中に蔓延する「自己責任論」に僕自身はモヤモヤする。

確かにコロナが拡大しているのも関わらず、海外に行った事には、一定の責任が伴うだろう。

しかし、個人の負い得る責任の範囲を超えるような範囲まで、自己責任を突きつけ、個人を見離してしまう社会は望ましい社会だろうか。個人的にはどこか不寛容で、息苦しい社会だと思う。また人々が唱える「自己責任」の言葉に、温かみは全くなく、傍観者の、利己主義的な、

他者を突き放すような冷淡さ、無責任さのようなものを時々感じる時もある。

甘ったれた、夢想主義的な考えかもしれないが、社会とは、社会の全構成員が 自由で住み良い社会を目指して、構成員同士が、協同的に、当事者意識を持って、他者を慮りながら、作り上げていくような、そしてそれには終わりがなく、成長し続けるようなあり方であって欲しいと感じる。

 

その後は2日かけて、リマ-ダラス-メキシコシティ-ロサンゼルス-羽田-伊丹

と乗り継ぎを繰り返し、なんとか無事に日本に帰ってくることができた。

結局ほぼ2日半はベッドで寝ていなかったし、今回はコロナ関連の心労も酷く、かなり疲れていたのだろう、家に帰って数日はひたすら寝ていた。

 

ペルーの滞在はかなり不本意な結果になってしまったけど、

ペルー自体は本当にいい国だった。詳しいことは次のブログに譲るが、

心からまた来たいと思える国だった。

特にオリャタイタンボという街は心から好きで、印象に残っている。

 

入社すると長く旅行できるような時間はなかなかないかもしれないけど、

また近いうちに行きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#27 京都

京都。

京都に生まれてよかった思うけど、

「京都に観光に来る」ことができないのが勿体無いし羨ましいなと思う。

北海道や東京、沖縄に匹敵するくらいのワクワク感をもって世界ナンバーワンの観光都市・京都を観光してみたかった。

修学旅行で京都に来て、一日乗車券で班のみんなと金閣や清水をまわり、本能寺の近くの旅館に泊まって、枕投げをして、よーじやや八つ橋をお土産に買い、新幹線で帰ってみたかった。

京都を身近に感じて生活できることは、他の人にとって羨ましい事かもしれないけど、

京都が発する特有の幻想やオーラに対して憧れを持てることに羨ましかったりするし、京都の美を、非日常的に感じたかった。

 

だからいつも京都に来てる修学旅行生やパンフ片手に目を輝かせてるような外国人観光客を見ると、

彼らのワクワクを体験できないことに軽く嫉妬し、

それでも、一生に残る良い思い出を作って帰って、また来て、と思う。

 

 

 

 

#24 ジョージアで死にかけた話

 

今めちゃくちゃ興奮してるので

久し振りにブログを書こうと思う

 

今日僕は一緒に旅をしてる友達と別行動して

世界遺産の街ムツヘタに行こうと考えながら

トビリシの街を歩きながら写真とったりしてた。

すると一人のタクシー運転手が声をかけてきた

ムツヘタまで行きたいと言うと2wayで50ラリ(2000円)だという

ちょっと高いと思ったしミニバスなら数ラリで行けるので迷ったけど

貸し切りやし楽で観光の都合もつくかなと思ってそれで合意した。

 

ムツヘタまでは約30分

イベリア王国の首都ということもあり、風情があってよかった

高台の教会に行ったりトビリシとは全く違う、ムツヘタのダウンタウンを街歩きした

(写真は後日facebookなりインスタなりあげます)

 

運転手とも途中道中ザクロのジュース買って飲んでたら運転手が

ジョージアのワインを半分くらい注いできて、ジョージアの酒は美味しいぜと言ってきたり(美味しかったけど喉焼けそうやった)

TOYOTAプリウスに彼が乗ってたとこから話が弾んだり

と途中までは割と仲良くしてた

 

しかしムツヘタのダウンタウンで昼ごはんをたべてかえってくると

なぜかめちゃくちゃ怒ってた

出発させた途端わけわからん英語とグルジア語でまくし立てる

 

よく聞くともう4時で4時間近くも拘束されてる

とりあえず450ラリ払え!(論理の飛躍)(日本円2万円近く)

 

最初ふつうに50でいいって言ってたのに時間を急に持ち出してきて

普通に、は??となった

バレないのをいいことにオーケーとか首肯く合間にふつうに日本語で

死ねとかアホかとか●すぞとか言ってた笑

とりあえず埒が明かないから財布に入ってた150ラリを隠し

残り110ラリを見せ、これだけしかないと見せた

 

運転手は大きい溜息をつきながら

ユーロは?ドルは?

と聞いてくる

これに関してはほんとうに持ってなかったのでこちらもノーの一点張り

(一回日本円1000円を見せ、これで250ラリ(日本円一万円相当)くらいあるんちゃう、知らんけどと言ったけど無理だった笑)

次に泊ってるホテルを聞いてきた。これバカ正直に答えたら終わるなと思って

今日のホテルはない 今から決めるつもりだった と言い張った

 

すると向こうもヒートアップしてきて

(運転手はいかにもジョージア人でゴツく、密室やしめっちゃ怖かった笑)

 

 

仲間に電話し始めた 変われと言われて変わると英語が話せる人だったらしく(渡されたのがスマホではなくガラケーでそれもちっこい日本だと10年前以上くらいに使われてたようなものやって、こんなんで話せんのか?と思ったのがなんか印象的だった)

atmに行ってお金をクレカで下ろしなさいと言われた。

万事休すかと思ってたけど、これは逃げるがチャンス来た!と思った。

失敗したら殺されるくらいの剣幕だったけど

これに賭けるしかないと思った。

というかこれは逃げるしかないなと思ってたところへの千載一遇のチャンスだった。

 

僕は急に従順になってお金をおろすからどっかとまってよ

と言った。彼も納得したらしくオーケーと言って車を出した。30分は止まって言い合いしてたと思う。

心臓はバクバクやったけど、正直この状況を楽しんでる自分もいたと思う

ピンチに立たされて生を実感した笑

ずっとこう感じていた

これ逃げ切れたら絶対ネタになる 逃げ切るしかない

 

 

しばらくしたらでかいショッピングセンターに止まって

ミスター、ここでおろしてこいと降ろされた

僕はオーケーここで待ってて、と言い

中に入った 

瞬間ダッシュで反対の出口を目指し、そのまま突き抜け

道路をひたすら走った 運動不足だったけど、

火事場の馬鹿力はほんとうにあるみたいで結構速く走れた

 

そこへ運よく違うタクシーが来たので手をあげると

またも運よく誰も乗ってなかった

入るなり、

「とりあえずトビリシ市街 急いで!!」(ドラマか)

と言うとおじいちゃんドライバーは戸惑いながらもなんとか走らせてくれた。

乗ってる最中、全力で走ったのと見つかるかもと言う緊張で

心臓がバクバクで、吐くかと思ったけど、

スリルにめちゃくちゃ興奮してた 

ホテルまで着いたら絶対ブログ書いてシェアしてやろうとさえ思ってた。

 

しばらく走らせるとどこのホテル?と聞いてきたので答えたけど

知らないらしく、止まって調べ始めた。

いつ追いつかれるかわからないなかドキドキしてた

ジョージア人はひっきりなしにクラクションを鳴らすので、

その度見つかったのかとヒヤヒヤした

 

やっとのことで運転を再開したかと思ったら、

若者ふたりの前で止まり、彼らと英語で話してくれと言う

(思えばこの人も英語が無理だった)

必死の思いで英語の住所と電話番号を見せると

若者たちがホテルに電話してくれた。

そこでやっとわかったらしく、出発した

僕は若者たちサンキューと言いながら本気で心から感謝した

この間もいつ追いつかれるか、ドキドキである

 

しばらくしてホテルが見えてきたとき、

勝った、と思った。

彼に運賃を払い、心からのマドローバ(ありがとうの意味)

を告げ、ホテルに駆け込んだ。

クリーニングされたホテルの布団にドカンと寝転び

勝ちを静かに噛み締めていた。

とりあえずSNSで報告してブログを書こうと思った笑

 

最終的に7000円くらい取られたけど(これでも物価を考えればめちゃくちゃ法外な値段)、二万円おろせと言われてたとこから考えれば最悪の場合のリスクヘッジはできたし

人に話せるような良いネタができてよかったと思う

 

ちなみにトビリシからカズベキという250キロくらい離れた街に乗合バス的なので行った時は

一人20ラリだったので、このクソ運転手がいかに法外な値段を請求してたか

わかると思う

そして最初の合意の時点で彼は全く時間の話は持ち出してなかった

 

なぜか海外旅行するとそれなりのトラブルに巻き込まれる。まあそれもまた魅力なのかもしれないけど笑

 

異国の地ジョージアで死にそうになりながらも

逃げ切った話でした。

 

 

次回からの教訓は面倒でも我慢してミニバスに乗って行こうということ

あとは一点突破で逃げ切ること

逃げるが勝ち

 

 

そのタクシーはホテル周辺で拾ったので

明日以降鉢合わせは気をつけよう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#21 カンボジアで泣きそうになった話

カンボジアに行った時の話。

その日僕は友達と別行動でベンメリアというラピュタのモデルになったと囁かれている遺跡に向かった。トゥクトゥクで走ること約2時間。

車窓から流れるカンボジアの風景は見てて楽しかった。子供が裸で遊んでたり、平気で自転車三人乗り、四人乗りしてたりするのが見れるし、それはもうカンボジアそのものだった。

 

遺跡に着いた。トゥクトゥクの運転手はここに帰ってこい、待ってるからと目で話してくれる。ありがとう、と言って遺跡に向かった。

遺跡自体は退廃的で、冒険してるような気分が楽しかった。初めてこの遺跡を発見した探検家もこんな気分だったのかもしれないと思いを馳せた。ラピュタの元になったかは果たして疑問だ。誰が言い出したのだろう。写真見たい方は僕のインスタ(http://Instagram.com/gosyuinka1cho)みてください。

一通り見て、さて帰ろうと行きし降りた乗り場を探すも一向に見つからないし辿り着かない。

完全に迷子になったのだ。地元民に聞いても全く伝わらないし、GPSも機能せず、機能してもGoogleマップクメール語表記だからどこにいるか分からんから意味ない。喉もカラカラになりながら炎天下を歩きに歩いた。

本当に焦っていたし、泣きそうになりながら来た道辿っていたら、幸運にもなんとか帰れて、運転手が冷たい飲み物用意して待ってくれてたの見て、また泣きそうになった。

 

 

 

ボーナストラック

トゥクトゥクの運転手が帰り道、お腹吹田市と言ってきたので、自分も、と答えると

小汚い、いかにもカンボジアな定食屋(定食屋と呼べるのかもわからない体裁)に連れて言ってくれた。地べたで犬が寝てた。怖かった。(前日の夜ホテル周辺を一人で散歩してたら野犬に追いかけられていた。狂犬病怖い…)

ただそこで食べた焼き飯は本当に美味しかった。美味しいと伝えると、運転手はおうよ、みたいな感じで目配せしてきた。それだけで良かった。

帰り道、ジュースも買ってくれた。ココナッツ?だと思うけど甘かった。旅中盤、心身共に疲れていたから、とても甘かった。

帰りオールドマーケット付近で降ろしてくれた。一緒に写真を撮ってもらい、ありがとう、またカンボジアに来た時に会おうと言って別れた。そんな出来事もあってか、僕の中でカンボジアはとてもいい国として記憶されている。

 

 

 

 

#4 腹痛耐久記

 

数少ない自分が尊敬する友達が腹痛についてブログを書いていたので自分も書いてみようと思う。

 

腹痛、それは予期しないような状況で訪れることが多い。そして大抵トイレが遠いことが多い。あの耐え忍ぶ苦痛はそうそう経験できるものではない。

 

まず考えられる絶望的状況が阪急の特急。

トイレがついてない。

催してきたらまず○門に意識を集中させ、足をクロスし肛○を締める。 常備してるビオフェルミンを飲む。ビオフェルミン信者にとってのプラシーボ効果みたいなもん。

聴いてる音楽にイライラしてくるからイヤホンを外す。

だってこっちが生死をさまよい社会的な死を避けようと頑張ってるのに

「わ〜たし さくらんぼ〜」なんて聞くと

お前はさくらんぼじゃねぇ!と思ってしまう

 少し余裕があるなら経路検索であと何分で次の駅に着くかを計算する。

駅に着いてもドアが開いた瞬間走り出すようなヘマはしない。意識を集中させ締めていた○門が緩んでしまうからである。慎重かつ迅速にトイレへと直行する。そういう時は大抵トイレは空いている。トイレの神様はちゃんと見てくれてるのである。

そうして用を足しながら思うことは

「自分はまた一つ修羅場をかいくぐった。また一つ強くなれた」

 

高校の授業中や教習所の学科・技能教習もキツかった。手を挙げていくことが憚られるような雰囲気。あのキツさは経験したことない人にはわからない。

 

そして最もキツいと個人的に思うのが、

合宿でのバス、である。

朝早くに集合、完全な密室空間、車酔い…

腹痛の役満である。

 

トイレがついてるタイプのバスもあるけどそうそう巡り会うことはない。

 

まず朝ごはんを食べないのはもちろん、

出発前は何回もトイレに行き、お前は本当に大丈夫かと問いかける。もしヤバそうになってきた時は、なるべく寝ることに努める。眠ると、眠りにつく直前の状態で便意がセーブされるからである。だから便意の波の上限付近は耐え忍び、下限付近で気合いで寝る。もちろんサービスエリアで買い食いするようなヘマはしない。

 

 

バスとか電車に乗ってる時にお腹が痛くならない人は人生かなり得している

バスの中でサービスエリアで買ったパンとか嬉しそうに食べる人の気がしれない。ヨーグルトやコーヒーなどもってのほかである

 

 

結局なにが言いたいかというと

 

 

ビオフェルミンは神

 

 

 

なんの話やねん。

もうええわ。